プラユキ・ナラテボー師の瞑想会

アルル・アヌ

2012年05月14日 11:19




昨日は、タイのお寺、スカトー寺にて修行されています
日本人僧侶・プラユキナラテボー師の浜松瞑想会に参加してまいりました。

瞑想会としては、今回で5回目。
私は今回を含めまして4回の参加となります。

毎回、繊細でありながら深い気づきを得られることができます。
まだまだ、瞑想というと、日本ではメジャーではなく、
イメージも特定の宗教などど結びつきやすかったりするのですが、
ナラテボー師の瞑想指導は、自由で健全!




回を重ねるごとに、普段自分が使っている心が、
何枚も何枚も薄皮が重なるようにできていて、
この気づきの瞑想を通すと次第次第に
薄皮の『色』が分かってくるようになるから不思議です。

そして、その薄皮が守っているものは、様々な出来事を通して、一瞬で生じた
心のサバイバルセンサーの快・不快・中性の反応。

ここに気づいて、思考をはまり込ませずに、「ぱっ」と手放していくことが
苦しみから自分自身を解放していくコツなんですね。

今回、私はこのタイミングをようやく掴める事ができました。
これは大きな大きな前進だと思っています。




そして、実際に手動瞑想・歩行瞑想の指導及び実践のときに
ナラテボー師がおっしゃられていたセリフ・・・・

「ここにある手は、昨日の手でも明日の手でもファンタジーの手でもなく、
今ここに現実にある手です。そして、この手は中立です。」

思考は、昨日のこと、数時間先のこと、目の前にいるわけではない人、
今ここでは無事に過ごしているのに、先々の不安を思ったり。

さらにさらに、こんな自分はダメだとか、あの出来事は許せない、
自分が正しいんだとか、批判したり比べたりで、中立でいることがなかなかできない。

そんな時に、今ここにある現実の手や足は、いつでも中立で存在するわけで
そこに思考を立ち戻らせる。
いつでも、どこでも、気がついた時に。

料理をしている時、洗濯を干している時、パソコンに向いている時、
いつでも、どこでも、「今ここ」と気がつく。

もう、早速実生活で役立てられています。

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